稲葉友紀|明治期の旧篠原家 ―店卸帳から見る変遷―
栃木県出身
志村直愛ゼミ
旧篠原家住宅は、栃木県宇都宮市に立地する国指定を含む重要文化財建造物である(図1)。19世紀末より醤油醸造販売を生業としていた商家の店舗兼住宅であり、時勢によって質屋や肥料販売も営んだとされる。平成7(1995)年に市へ寄贈され、現在は市教育委員会事務局文化課管轄のもと、管理?運営されている。
残存する主屋と石倉3棟は、終戦間近に発生した宇都宮大空襲にて辛うじて焼け残った。その希少性と当時の豪商の財力を思わせる、堅牢かつ立派な現在の数々が評価されている。
しかし、そうした建築面での評価が多くなされる一方で、「旧篠原家の商い?暮らし」に焦点を当てた研究は見受けられない。そこで、本研究では『旧篠原家住宅所蔵目録』(非公開)より明治期の店卸帳(図2)を取り上げ、当家の金銭動向を図表化して分析するとともに、歴史との関連性を考察していった。
日本経済において激動の時代とされる明治期において、旧篠原家の総資産は右肩上がりの動向を示した。絶え間ない成長を如何にして成し得たのか。帳面内の内容?数値から、「商家」から「資本家兼地主」へのスタンス変更が要因と推察される。そして、その転機となったものして考えられるのが、「松方デフレ」と「家督相続」である。
明治14(1881)年、松方正義によって行われた財政政策は大きな物価下落を引き起こした。その影響は栃木県にも波及し、明治17~21年にかけて不況が記録されている。特に商家への打撃は大きく、店卸帳にも同時期に商売の低迷が見受けられた。同時にデフレによって農家が困窮したことで、明治18年に土地の公売が開始されることとなる。そこで商売低迷による資産減少対策として、本格的に土地買入を行うようになったと考えられる。
商家でありながら地主としての側面を持つようになった旧篠原家は、順調に資産を増やしていくこととなる。その傾向は、4代?友吉から5代?友右衛門へと家督相続が行われた明治37(1904)年を境に、より顕著となった(図3)。変わらず醤油醸造を続けながらも「資本家兼地主」としての色を強めていったわけである。
以上の内容は、店卸帳の一部を分析しての結果に過ぎない。旧篠原家住宅にはまだ多くの史料が残されているため、歴史学?民俗学的な研究が今後より進むことで新たに見えてくるものもあるだろう。今後も調査を進めていきたい。