東北に越したらまず訪れたい場所があった。
太平洋に面する青森県八戸市の種差海岸である。
奇岩や松原、天然芝生地で知られ、東日本大震災後の2013年には、「自然の恵みと脅威、人と自然との共生により育まれてきた暮らしと文化が感じられる国立公園」として新たに指定された「三陸復興国立公園」の区域に含まれた。
この種差海岸が日本画家?東山魁夷(1908-1999)の代表作《道》(1950年、東京国立近代美術館蔵)の取材地であると、私が大きな驚きとともに知ったのは、それほど昔のことではない。あいにく観覧は叶わなかったが、青森県立美術館で「種差|よみがえれ 浜の記憶」展(2013年)が開催された際、《道》がメインビジュアルとなっていた広報物で知ったのではなかったか。
なぜ驚いたのかというと、これ以上ないというくらい削ぎ落とされた一本の道を主要なモチーフに、青空と草原が描かれる本作を、私は東山魁夷のイマジネーションの産物であると長年思い違いをしていたのである。所蔵先の東京国立近代美術館では、学生の頃看視員のアルバイトをしていたから作品自体はよく見かけていたにもかかわらず、「そこがどこであるか」などとはまったく考え至らなかった。
だから、特定の場所性を微塵も感じさせないほどシンボリックな《道》が、どこを着想源とするものだったのか? 東山魁夷が見た風景を、私も見たいという思いに駆られたのである。
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モチーフは、種差海岸に並行するようにして整備されている県道1号線。山形市内からだと山形自動車道、東北自動車道、八戸久慈道と高速道路を乗り継いで車で約4時間半、約370キロメートルとなかなか骨が折れたが、具体的な取材地自体を見つけることは難しくない。記念碑が建っているからだ。
記念碑には、「東山魁夷『道』記念碑建立事業実行委員会」の名義でこう書かれている。
東山魁夷画伯(一九〇八年七月八日横浜市生まれ)は、四度この地を訪れております。
一九四〇年の初夏、かねて聞いていた大平牧場を訪れてスケッチし、その後兵役や相次いで肉親を失うという苦難を経て、再び五〇年の夏にここに立ち『道』を描き、画壇での地位を確立されました。
六九年、文化勲章を受章。七五年に唐招提寺御影堂障壁画を完成。七八年と八三年の夏に画文集取材のため御来八され、道にまつわる心境や牧場での感動を深い感慨を込めて語り、長い画業のあゆみの方向を決定づけた道、全作品の道標となっている『道』とも表現しております。私共は、東山画伯のこの道への格別の愛着と、人生の道、芸術性?精神性の高い求道の道に昇華させたその事を語り継ぎ、美の究竟を求める真摯な画業と、悟りの境地にも比すべき清澄幽玄な画風を称え、ここに有志相集い記念碑を建立するものであります。
「平成六年八月」とあるから、東山魁夷晩年の頃である。「東山魁夷『道』の記念碑について」というこの文章が載る面のほかには、本人の署名がある「道 東山魁夷」の書、モノクロームの作品図版、東山魁夷『風景との対話』(1967年)からの抜粋が、各面に掲載されている。作品図版の載る面が、モチーフとなった道自体と隣り合うようにして記念碑が設置されているため、作品とモチーフの関係をここで比較することができるようにもなっている。
見比べると、灯台(鮫角灯台)が道の正面の丘に建っているのが見える。
東山魁夷は『風景との対話』で、「青森県種差海岸の、牧場でのスケッチを見ている時、その道が浮かんできたのである。正面の丘に灯台の見える牧場のスケッチ。その柵や、遊牧の厩、灯台をとり去って、道だけを描いてみたら――と思いついた時から、ひとすじの道の姿が心から離れなくなった。道だけの構図で描けるものだろうかと不安であった。しかし、道の他に何も描き入れたくなかった」と、《道》では「道だけを描いてみたら」という「思いつき」から、実際の風景からいくつかのものを「とり去っ」たのだと述べている。
灯台はそのうちのひとつである。牧場の柵や遊牧の馬は、いまは見られなかった。また、東山魁夷の制作における作為とは別に、作中で描かれる道は土だが(「野の道」と、東山魁夷は『風景との対話』で書いている)、現在は舗装され、ガードレールや標識などが設置されているという時代の推移による差異が発見できる。
こういったことは、上述の通り作家本人が著作で残していたり、あるいは研究等によって指摘されていることであるから、殊更に書き連ねることでもない。けれども、実際に訪れてみて、私がつくづく興味深く思ったのは、それでもなお、なぜ東山魁夷はここを描いたのかということだった。
灯台、牧場、馬だけではなく、目線をその道から右側に移せば、すぐそこは種差海岸が広がっている。東山魁夷の取材当時がどうだったのか詳らかにはわからないものの、海辺の岩場は雄々しく、松が群生するさまはいかにも日本画的な風景である。過去、東山魁夷は《海》(1940年)と題し、千葉県犬吠岬の岩場と激しい波しぶきの風景を描いている。そのような「絵になりやすい」と思われる風景ではなく、このとき東山魁夷は、「野の道」を描いた。
「画面上方右へと道は続き、その先が明るく見えるこの作品は画家自身だけでなく、終戦からちょうど5年が過ぎた当時、日本という国の行く末を案じていた多くの人々にも希望を与え、励ました」と、『生誕110年 東山魁夷展』(日経新聞社、2018年)では解説されている(執筆:小倉実子)。
そうだったのかもしれない。
一方で、ややスケールダウンして日本画史の範囲で言えば、アジア?太平洋戦争敗戦は日本の伝統文化排斥の機運を生み出し、戦後、「日本画滅亡論」や「日本画第二芸術論」が唱えられた。《道》が発表された1950年は、日本画に変革が求められ、前衛的な団体が新たに生まれるなどしていた時節でもあった。そこで東山魁夷の個人的な状況を見ると、戦中から戦後にかけて父?母を相次いで亡くし、1946年の弟の死去によってすべての肉親を失っている。東山魁夷『わが遍歴の山河』(1957年)の終わりには、10年以上前の手記として以下の文章が載る。
悲惨な戦争、次々と死んで行つた肉親、たしかに私は未だ死への親愛感にとりつかれてはいる。が、今墓場から甦つた者のように、私の眼は生へ向つて見開かれようとしている。私の精神は徐々にではあるが、生を把握する日がくるのを暗示しているようだ。全てが無くなつてしまつた私は、又、今生れ出たのに等しい。これからは清澄な目で自然を見ることが出来るだろう。腰を落ち着けて制作に全力を注ぐことが出来るだろう。又そうあらねばならない。こう考えた時に、私の眼前におぼろげながら一筋の道が続いているのを見出すのでした。
東山魁夷にとって自然を描くということは、その対象が「絵になりやすい」かどうかではないということだ。むしろそうではない「清澄な目」が、本人の求めたものであった。「全てが無くなつてしまつた私は、又、今生れ出たのに等しい」という状況が、敗戦後の日本や日本画の置かれていた状況と重なってしまったのだとも思える。だから、はじめて種差海岸を取材した1940年ではなく、戦争体験と肉親の喪失を経た1950年に、本作《道》は描かれた。
モチーフとなった種差海岸と県道1号線は、そのような「重さ」など素知らぬ顔で、ただ海として、ただ道としてある。
(文?写真:小金沢智)
Information
東山魁夷の代表作のひとつ、唐招提寺(奈良県)の御影堂障壁画68面が一堂に展示される展覧会「東日本大震災復興祈念 東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」が、宮城県美術館で9月19日から11月1日まで開催される。東山魁夷が10年以上の月日をかけて取り組んだ作品群を、東北で観覧できるこの貴重な機会に注目してほしい。
東日本大震災復興祈念 東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展 ※終了しました
※本学は宮城県美術館のキャンパスメンバーズ制度に加盟しており、本学学生?教職員は、常設展は無料、特別展は半額で観覧できます。(入館の際、学生証または教職員証を提示してください)
会期:2020年9月19日(土)~11月1日(日)
会場:宮城県美術館(宮城県仙台市青葉区川内元支倉34-1)
小金沢 智(こがねざわ?さとし)
東北芸術工科大学芸術学部美術科日本画コース専任講師。
キュレーター。1982年、群馬県生まれ。2008年、明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻博士前期課程修了。専門は日本近現代美術史、キュレーション。世田谷美術館(2010-2015)、太田市美術館?図書館(2015-2020)の学芸員を経て現職。
「現在」の表現をベースに据えながら、ジャンルや歴史を横断するキュレーションによって、表現の生まれる土地や時代を展覧会という場を通して視覚化することを試みている。
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