東北芸術工科大学卒業生支援センター企画事業
I'm here. 2006|リアルはどこだ
「〈芸術≒生活〉から生まれるリアリティー」 宮本武典
2006年に開学15周年を迎えた東北芸術工科大学は、既に5,000人の卒業生を社会に送り出している。当然のことながら、彼・彼女らのすべてが、クリエイターの道を志向するわけではないが、アートやデザインを学んだことを、各々のライフスタイルに上手に取り入れることで、日々の暮らしを精神的に豊かにしてくれれば充分だ。人間らしい生活と、芸術は等価である。
しかしながら、心の中では「15年経った。さあ、ホンモノのアーティストはどこにいる」と声高に、アートに賭ける卒業生たちの活躍を求めたい想いがある。洋の東西を問わずアートシーンは、ギャラリスト、編集者、評論家、学芸員、コレクターといった人々の、まだ見ぬ才能への「愛」にも似た所有欲の発動によって支えられている。東北で学んだ5,000人の中に、新しいクリエイションへの待望熱に呼応する若者は存在しているのか?
『I'm here.』とは、こうした「まなざし」を意識しつつ、それぞれのフィールドで懸命に制作を続ける芸工大出身のアーティストを発掘し、その人と作品を紹介していく展覧会シリーズである。
大学で彫刻とイラストレーションを学んだ岩本あきかずは、現在、家族を介護しながら絵を描く日常を過ごしている。「精神のバランスをとるため」に、枕元で描くという絵画は、一見、柔らかなパステルカラーに彩られているが、そこに描かれるハイブリットな生物やシェイプの、「脱皮」的な連なりは、見る者にイメージの不穏な転調を予感させる。
橋本大祐は、P.I.C.Sに所属し、テレビ業界で多くのスポットアニメーションを手がける映像ディレクターである。多くのクライアントからの要求をこなす毎日に心身ともに疲弊すると、仕事としての映像制作からの逸脱として、自動筆記的なドローイングを楽しむという。2005年の文化庁メディア芸術祭で優秀賞を受賞したCG作品『flowerly』は、そうした密やかな逸脱行為から生まれたアート作品だった。滲みとともに発生と消滅を繰り返す有機的な色相は、リリカルで美しい。
小林和彦の映像や写真は、山形・東京間の新幹線の車窓や、歩行の記録を素材に制作される。その作品に共通する円環構造は、都市を「移動」する際の呼吸や心音のリズムをリアルに感じさせる。私たちの身体の中にある「都市の生理」を発見させるスコープである。
鈴木伸は、金属工芸を学んだ後、現在は東京藝術大学で空間デザインを学ぶ。神奈川出身の鈴木にとって、山形での大学生活は空間把握のスケールを根本的に変えてしまったという。切り裂いた化繊布に「東京」の映像を投影したインスタレーションは、都市のノイズに浸されつつも懸命に適応しようとする鈴木自身の身体感覚の、疑似体験装置として制作されていた。
坂田啓一郎には、職人的な木彫作家という印象を持っていたが、今回、マケットとともに展示された制作メモを見て、そこに神秘主義的な言葉や数列がびっしりと書き付けられているのに驚いた。彫刻のスケールや、「彫る」行為に、何か宿命的な裏付けを求める自問自答の過程が、その彫刻の鋭角な先端に表れている。
今回、招聘した5人のアーティストは、それぞれが置かれている個人的な状況や環境と「折り合いをつける」ために、制作を継続させているように思えた。こうしたオブセッショナルな制作態度は、「若さ」によるものか、それとも、アーティストに求められる、近代以降かわらない、ある種の社会的要請によるものなのか。いずれにせよ、彼らの表現から浮かび上がってくる社会へのリアクションや、切羽詰まった感情の表出に、無条件に共感を覚える。そこには、私たち自身の「生の現実」が投影されているからだ。彼らは「アーティストになるために、作品」をつくっているわけではない。この展覧会における、いや、アートにおける「リアル」とは、そういうコントロール不能な「生きること」と「表現すること」の愛憎関係から発生してくるのだ。
[東北芸術工科大学学芸員]
上:岩本あきかず(グラフィックデザインコース卒業)のペインティングとオブジェ/せんだいメディアテーク
下:坂田啓一郎(彫刻コース大学院修了)の彫刻作品/せんだいメディアテーク